昭和41年07月24日 朝の御理解



 お道の信心をさせて頂いたら、お道の信心の独壇場と言う所がある。お道の信心の建て前、生き方というか、それが銘々の日常のなかにも、その事を確信さして貰、その事を信念さして貰うて、生活をして行く。どういう独壇場という、言われるものがあるかというと、日々の事柄の中に、お取り次を頂いて、いわゆる、お取り次を頂いての今日一日という事なのである。
 ですから一切の事、起きて来る一切の事柄が、良しに付け悪しに付け、御神意のまゝに、神の働きが展開して来るのであるから、そこんところを頂いて行くと、お取り次を頂いてからの事であるからという、私はいわゆるお互いの、お取り次を頂いて、信心の稽古をさして頂いて行く者は、そこんところに、自分の祈りというか、又は、お取り次の働きというものを、確信さして頂く生活、いうなら自分の祈りに自身を持って。
 例えば、親が子供の事を願う時に、子供の不幸せを願う者はおりません、ですからいうなら日々お願いをし、日々お取り次を頂いて、親は子供の幸せを、例えば願うと致します、その子供の幸せの為に神様は、早速お働きが始まるのです、所が人間の見た目にはです、反対にそれとは反対の、例えばんなら子供が夜更しを致したり、まあこりゃ出来損のうて息よるじゃなかろうか、と思う様な事が、感じられたりする訳です。
 だからと云うて、心配はいらんと私は思う、自分の祈りに自身を持ったら、お取り次の働きというものに、いわゆる確信を持ったらね、それでもそこが人間、そこが生身、矢張り親として、あんたそう云う事で良いのか、と、そこはこう改めて行かなければ、ならんのじゃないかという訳なんです。ところが、例えば子供はそれを、んなら改めないとする、そん時にゃ はゝあ、これが神様のご都合だなと。
、こうどん腹が据えられる、信心なんだ問題は、ですからね、消極的なあり方と、積極的なものとが、こうひとつであって、そしてその向こうには、もういっちょです、超消極的と言った様なです、まゝよと、まゝよとは死んでもまゝよの事ぞ、という様な私は、どん腹の据わった信心というものが、大事だと思うんです。お互いの祈りに確信を持て、お互いの祈りに自身を持てと、でなかったら、何の為のお道の信心しとるか分らん、例えば、御造営なら御造営という事に対して。
 毎日総代さん方が、お取り次を願われる、どうぞ今日も、御造営の上に、万事お繰り合わせ頂きまして、中心であります所の業者、井上組を中心に、他の業者の人達の上にも、万事お都合お繰り合わせを頂きまして。本当に神ながらな、神ながらな御造営が成就になります様にと、云う事を願うお取り次を、毎日願っておられる、総代さん方一同でそれを、その事を願っておられる。有難いと思うね、ですなら総代さん方がですね、私共がこうやって椛目の為に、椛目全体の事について。
 日々お取り次を頂いてからの事であるから、一切神様のご都合のまゝに、お働きがあっておるんだと確信しなかったら、お取り次を頂く値打ちはなかです、そうでしょうが、お取り次を頂いての事であるから。と云うてです、例えば今申します様に、お取り次を頂いて事であるから、と云うて、黙っといてよかと云うのじゃあないという、これどうもおかしいなと、これでいゝだろうかと矢張り生身ですから、人間ですから感じる。
 そこんところをです、私は、あゝでもないのか、こうでもないのかと検討したり、その事を進言したりしなければならないと、それでいて、進言した通りにゃならない、思う様になって行かないというならば、はあこれこそ神ながらだ、これこそ神様の働きなんだと、頂けれる信心なんだ、皆さん、こゝんところがね、総代さん方を始めです、こりゃ御造営の事に付いては、そこん所が分からなければ、おかげになりません。
 これ、銘々の事の上においても同じ事なんだ、一個人の事の上においても一家中の事においても。昨日企画委員の方達の委員会があった、いわゆる消極的な、又は積極的な様々な意見が、しかも本当に大事な事を協議される又、計画されて、昨日丁度お月次祭でしたから、夕方までその話し合いがあっております。それが私は様々な意見が続出する、積極的な、又は消極的な、ね、そういう話が無いといけないと、私は思う。
 けれども、自分の意見が通らなかったから というてです、私ゃ、もグラグラしたと、私ゃもう、こげな御用は御免被ったと、そういう様な事では、お道の信心頂いておる者の、値打ちは無いです。そうでしょうが、立派な御造営が御成就なら御成就、という事を祈りとし、願いとしておるのであるから、消極的に物を考える人もありゃ、積極的に考える人もある。赤の人もありゃ黒の人もある。
 そういう人達が意見を出すんであるから、様々な意見が出るのが当たり前、と云うて自分の意見が通らなかったからとか、自分のものんならなかったと云うてヾすね、私ゃこげな御用は御免被ろうと、言った様な事であるとするならば、こりゃお道の信心を頂いておる値打ちは無いまあね、これがよかれがしと思うて一生懸命に。例えば云いもすりゃ思いもする行いもして来るのですけれども、それが例えば赤と思よったのに、黒になっていきよるならはぁこれが御神意だなあと、これおかげだなあと云う事をです。
 分からしてもろうてです、スキッとさしてもらえれる様な、おかげを頂かなければです。お道の信心の値打ちは無いでしょうが。お取り次を頂くがお道の信心の、独壇場と云われておる所のお取り次を頂いて、日々お取り次を頂いてと云う事は、自分の思う様んなってるという事じゃないのですね、というて、んならお道の信心はですね。神様にお願いさえしときゃ、もう黙っとったっちゃよか、と云う様な事ちゃ決してないのである、そこんところに消極的な、又は積極的な、そういう働きがひとつんなってです。
 言わば行き過ぎる人の為には、良いブレ-キになり、又消極的な人の為には、それを前の方へ押し出す様な働きになり、何とも云えん、例えば、椛目の御造営の上にも、とやこう云いながらあゝして。云うなら見事におかげを頂いていっておると、云う様にです、まあ本当に、本当に神ながらに、おかげを頂いていっておるという事が、云えるじゃなかろうかと、こう思う。
 お互いこれは御造営の事に限らず、自分の祈りに自身を持って、例えばそれを子供の場合を申します。子供の幸せを願わん者はありません、いわゆる椛目の信者である以上です、椛目に縁を頂いておる人達以上( ? )ている以上です、椛目の御造営が。どうぞおさまったつが出来りゃえゝがと、おかしなつが出来りゃえゝがと、いう様な思いが祈りを持っておる人は、ただの一人だってあるまいと思う。出来るだけ安くそれでいて出来るだけ立派に、そういう願いを持っておるからそこに様々な意見もあるのです。
 そこに何ともいえん神様の働きがです、消極的な人を、又は積極的な人を使うて、何ともいえん働きというものがあっておる。その根本というところは、どこにあるかと云うと、私の、云うならば信心だと、私は思うんですよ、何故かて、私がどうでも良いという気持ちなんだもん、どうでもいゝと云うか、あんまり放任的ないわゆる、放任のしたげな考え方なんですけどね。
 私も云います、例えば んなら、内殿外殿といった様なところに、大事な所は、こりゃも絶対私が、設計者が何と云おうが、総代が何と云おうが、こゝは私の、言わば私の感覚にピッタリくる様なものを、為にこゝはこうじゃいかん、あゝじゃいかんと云う事も申します。けれどもそれが、ならんならです、それがそうならんなら、仕方がないと云うのじゃないです。はゝあ、これが神ながらだなあ、とこう頂くのだ。
 もう俺の云う通りにならんやったけん、もう、はがゆしてたまらん、と言った様なのではなくてです、これが本当だという事は堂々と、私は言わばこれが正論と思う事は、それを吐かして頂かなければならんけれど。それがならなかったからというて、腹立てっ所は一つもない、そこに私は、お取り次の働きというものを、確信しておらなければ、又は自分達が、日々祈っておると云う事をです。
 自分の祈りというものが、何かの形によって成就して行きよるんだと、信用さして頂かなければ私は、お道を信心頂いとる者の、値打ちはないのです。昨夜も私は、その模様を色々聞かせて頂きよりましたら、丁度、あの昨夜のお月次祭に電気を、そこ暗くしてお祭りを仕えた様にですね、所が、その明かりがある所には、あの虫がそれこそいっぱい集まって来る、それの情景を頂くのですよ、だから問題は椛目に光が無かったら、煩わしい事は何ぁにも無いですよ。
 誰ぁれもどおん言わんですよ、それこそ、いわば消極的というよりも、むしろ無気力状態です。どうとかなろ、なろたいち云ういうごたるものです。誰しもみんながそういう気持ちだった。電気を消して真っ暗にしてしもたら、光があるからこそ煩わしい、例えば明るいおかげを頂かれる為には先ず、矢張りうるさいと思うけれど、虫も又集まって来るという事なんですよ、それを私、じっと聞かせて頂きよって、それこそ何時か御教に頂きました様に、うるさいと思えるいる子ばかりなりなのだ。
 あれが云うておる事も、これが云うておる事も、何てやかましい事かと、何という煩わしい事かと、ごたるけれどもです、どれもこれも、いる子ばかりがその事に、一生懸命になっておるという姿であるから、お礼を申し上げる以外にゃないんだと、何時もかつも虫がおる訳じゃあないのだ、矢張りこの明々とした、光々とした光を頂かして頂いておるからこそ、矢張り、時には虫も寄ってくるんだと云う事をです、思わせて頂く時にです、おかげだと云う事が分かります。
 昨夜も、あすこでお茶を開きながらでした、何かの話からでした皆さんもお気付きでしょうか、そこのお手洗いの所に、黒いベニヤの板が四、五枚、こう立て掛けてございます。あれは古谷さんが指図されて緒方の、緒方さんて云うか、井上組の方があそこへ持って来て下さっているんです、おそらく古谷さんの指図であろうと、こう思います。て云うのは、皆さんも御承知の様に、本当に私はもう、ほんなこてこげな馬鹿んごたるこつばっかりしてち思いますけれど。
 あすこで便所が丁度あの馬糞紙んごたる かた紙のごだるとか貼っちゃるでしょうが、紙で作った様なもの、ですから、もう梅雨時ん、あの雨が降る時になりますとですね、あそこは、ジッと湿ってしまうんですよ、電気のグリルが本当に。こげなものば使うちからと云う様な事を、あの古谷さん聞かれたんでしょう、それであそこを、あのベニヤのあれで貼られる積りなんらしいんですよね。
 それは、私が云えばすぐするかも知れません、けども、私は大体は、も云わん主義で御座いますから、ほんな事云うなら今年一年しか、こゝにはおらんのだから、も、その必要はないのだけども、するち云わっしゃりゃ、ま、して頂いてもよかて、一時でん、よかりゃよか方が良いからと、いう風に思ってるんですけど。わざわざあすけ材料は持って来といて、あすけ放からかしてないね、下だけでも貼れば雨が 不愉快なものが無くなる、所がもう、やんがて梅雨も、やんがてじゃない。
 梅雨も終って、こうした乾天続きであれば、そういう様な事ひとつもない梅雨の内、もう梅雨前んでんしなかったら何なるかと、なあんにんならん事を、あすこにしとる様にある。ほれで私が、久富先生に、大体どうかいゝよるとですかと、したら久富先生がその、何時もにあわん事を云われた。私は知りまっせんていと云わっしゃった、知りまっせんち、云うがあるかち私がね、あんただん、例えばこれが、総代か他の信者が知りまっせんち云う分はかんまん。
 時々しか行かんのじゃから、それじゃったっちゃちっとん、本気でその事ほんなこてするなら今ん内しなかったら、なあんにんならんのだ、もう今年一年しかおらんとに、しかもこげな雨が降る時に、前にしなかったらも。いよいよ何にんなかが、何グズグズしとっじゃかと云うて、一辺ぐらい、催促ぐらいせなきゃならんのだ。まして椛目に何時もおってから、言わばそういう意味合いでの御用は、久富先生が受け持ってあるところの、受け持ちの場をです。
 私ゃ知りまっせんてん何んてん云うのは、そう言う様な、言い方があるか・と云うて私が、ま声高に言ったんです、けれどもです、私の方の中には今云う様に。私はどうでも良い、ち云う様なものですよ。実を言うたら、言わば、云うなら積極的に、云う事だけは云うた。正しい事だけは 私が久富先生に云うただけの事、それでいて、又久富先生が言われもしなければ、言うても、又あちらから来もせんならば、もうそれは、神ながらなものだとして。 
 私は頂けるですけどもそうせずしといては、それは神ながらという。いう訳にはいかんでしょうが皆さん、ね。総代さんなら、総代さん方ん中にでもです、赤の人もありゃ、白の人もあるのです、ですから、御用なら御用の事にでも、右が良いと云う人もありゃ、左が良いという人もありましょうよ、ね、けれどもそれは、立派な御用なら御造営と云う事が、御成就になると云う事が焦点であり、それが願いなのだ。
 それが日々お取り次を頂いて、願っておるから、私ゃこうしたがいゝと思う、いぃや、私ゃこうしたがいゝと思うと云うのが、そういう、いやそれが場合によっては激論にもなる様な事にもなるのだ、それでいゝんだ、でなからなけりゃいけんのだ、けれどそれがです、右んなろうが左んなろうがです、いわゆる二人のいいようも、又別の方法んなっていこうがです。
 そこんところにはぁ自分なこう思うて、一生懸命云いもすりゃ思うたけれど、こうなって行く所を見ると、これが神ながらばいなと、分からして頂く所に、お取り次を頂いて日々信心の稽古をさして頂いておる者の、値打ちがあるんだと云う事。それが何時まぁでん、これに持っとかんな、あれが俺が右ち言ったら左ち云うた、ようし今度は俺が右ち云う時に、俺が必ず左ち云うと云うぞという様なです、汚なぁい意地を持って、信心が頂いておるのじゃないでしょうか、お互いが御用させて頂いておるのであるから。
 本当に、御用が御用にならして頂く為にです、御用が、御用にならせて頂く為に、本当に神様に喜んで頂く御用に、ならして頂く為にです、一生懸命、言わば、消極的な消極論もあってよかろう、積極論もあってよかろう、けれどもそれが、結果においては神ながらなものに、おかげを頂いて行くというおかげですから、自分の目先の、これが良いと思った事でもです。
 これが心ならんのとするならばです、それを日々お取り次を頂いての事であるから、お願いをしての事であるから、はぁこれが神ながらな、神様の働きというものが、こういう風に現われておるんだと、スキッとそこを有難く頂いていけれるというところに、私は お道の信心の値打ちがあると、こう思うんです。御造営の事を中心に申しましたが。
 これは銘々自身の事においても一家の上においても同じ事。そこに何時もスッキリした、それこそスカッとした日々が、過ごせるのじゃないでしょうか。
 だから私が云う黙-ってね、それが黙っとる事がね、それが本当の平和じゃない。こうと思った事を、それがやっぱり激論と言った様なところまで持っていってもいゝと、けれどもそれがこうと決まったらです。それがやっぱ神ながらたいとこう、例えば思えれる様な異論し難いと云う事がです、それこそ真っ暗やみに、光のついてこない様な生き方がです、それが平穏無事でスム-ズだと、いった様な風な思い方は間違い。
 生き生きと、何時か何とはなく火花を散らしておる様に、それでいて日々さらな事に、新しい事にそれが展開して行くと言う様な、おかげを頂かしてもろうて。本当の成就と云う事が出来るのじゃないかと言う風に思うのです。ギリギリの所はです、やっぱり矢張りお道の信心はある人はそれを消極的といった、そうでしょ金光様の先生は別に出て廻ってから、信者にお話をして廻ったりお導きをして廻ったり致しませんものね。
 こりゃ金光教だけでしょうね、そういう宗教は。じっと畳 半畳に座ったきり、そして助かりを求める、救いを求めて来る人に、どうでもこうでも、そういう言わば求めて来る者には与えずにはおかんという様な、積極的なお取り次をさして頂くというのが、お道の信心のあり方、ですからこゝに座っとる先生そのものはです、もう今日食べるものが無くても、( ? )信者の家で相談に乗るって言った様な事はようしません。
 ですから、云うならば消極的な様に見えてです、実を云うたら死んでもまゝよ、と言う様などん腹がなからなければ、こゝにゃ座られん、無謀な積極だから、私はそこを名付いて云うならば、超積極的だと私は、超積極的だという姿はです、やゝもすると消極的な様にも見えるのです、又は、実際それが消極的になってしまう様な場合もあるのです。けれども、その中心のどん腹というものは、それこそどうでも良いのである。
 例えば御造営なら御造営がです、例えば甲乙様々な意見が激突して、それなら、まいっときばかり見合わせとこと今取り止めとこというでもですね、私はもう本当にそうよ、と云うだけじゃろとこう思います。本当にどうでもいゝのですから、それが御神縁であるならばです、金光様の御信心の、言わば頂いておる値打ちというか、金光様の御信心のその助かり方の、言わば独壇場なというといおうかと言う様な所がです。
 お取り次を頂いて、日々お願いをさして頂いておる、その祈りに対してですね、自身を持てと、お取り次の働きと云う事に、確信を持て。そこには赤になろうが黒になろうが、右になろうが左になろうがです、その事に、いわば努力さして頂いて、云いもすりゃ行動もさして頂いて、そして尚且つ、そうならなかったとするならば、それは神ながらと受ける事がお道の信心だと、そして、それが必ず思う以上のおかげになって来るという事をです、私その、皆さんもですけれども、私もそれを確信致します。
 又皆さんもそういう体験をです、積んで来られた事であろうと思いますから、御造営なら御造営の事にあたっても、矢張り同じ事が云えるのです、ね。もそげぇんあんたガタガタ云わずに、仲良うまちっと具合よう云う訳にゃいかんのと、けども事御造営に限りよりよく頂く為なら、そりゃ喧嘩があったっちゃいゝじゃないか、そして、そこの負けるとか勝つとかじゃなくてヾす。
 どちらの意見がどうであろうとです、その時にすでに、そこに神ながらなものがある神ながらな働きがあるんだというですね、私が頂き方がいよいよ御造営を立派な御造営としての、おかげを頂ける事であると、こう思うのです。御造営を通してです、個人の事、又は自分一家の事も、いよいよ分からせて頂かなければならん。まず、どうぞお取り次を頂いて、総代さん方が日々ね。
 一同の未来を取り付かれて、どうぞ御造営のスム-ズな御成就を願っておられる、どうぞ、業者の上にも被害が無い様に、万事万端そそうが無い様に、お願いをなさっておられる。そういう祈り、願いをさして貰、そういうお取り次を頂いての事であるのだから、という確信をです、総代さん方を始め 皆さん持って頂きたいと思うですね。
   どうぞ。